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歴史探訪

宮崎太郎長康の祖先と生い立ち

中大兄皇子の腹心であり、共に「大化の改新」を推進した大政治家。後の藤原家繁栄の始祖となる。万葉歌人としても知られている。

鎌足の次男。大和国家成立の憲法である「大宝律令(たいほうりつりょう:701)」の編成に関わった大政治家。

不比等の孫。北陸道(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)7州の太守であり、後に上野介・上総介・鎮守府将軍となり東国を平定。

藤原利仁の三男で、越中国を任せられ砺波郷に住み、越中国の豪族として勢力を維持。

佐味郷(今の黒部川東部の朝日町、入善町、黒部市の一部)に住む。

同じく佐味郷(今の黒部川東部の朝日町、入善町、黒部市の一部)に住む。

「宮崎家」に還って、初代宮﨑城主になる。

 宮崎太郎長康(以下宮崎太郎)の祖先は、飛鳥時代に天皇制を確立して大和国家統一をめざした中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)の腹心として大化改新(645)を推進した、大政治家であり万葉詩人としても知られている中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足:614~669)です。

 

 鎌足は、天智天皇の側近として大織冠(たいしょっかん:正一位)を授けられて内大臣(うちつおおみ)となって「藤原」姓を賜り、以後の藤原氏繁栄の始祖となりました。


 鎌足の次男、藤原不比等(ふじわらふひと:659~720)も政治家で、大和国家成立の憲法である「大宝律令(たいほうりつりょう:701)の編成にかかわった人物です。


 平安時代になり、藤原不比等の子孫である藤原利仁(ふじわらとしひと:生没年不詳)は、北陸道(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)7州の太守となり、さらに、上野介・上総介・鎮守府将軍となって東国を平定し、大和国家において政治的・軍事的基盤を確立しました。


 その三男の「井口三郎光義」は、越中国を任せられて砺波郷に住み、「越中古諸家の祖として、この地の二十四家(特に、石黒家・宮崎家は嫡家となる)は井口家に属し…」とあり、越中国の豪族として勢力を維持していました。

 

 その後、子孫の井口蔵人は、佐味郷(今の黒部川東部の朝日町、入善町、黒部市の一部)に住むようになり、さらに井口光範の子孫が「宮崎家」に還って、宮崎太郎は、初代宮崎城主になったといわれています。


 宮崎太郎の生没年については、いくつかの史料によると、「1195年(建久6)63歳没」とあることから、「1132年(長承元)」に生まれたことになります。

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宮崎太郎の地域社会への関わり

 このようにして、藤原一族の末裔といわれている宮崎太郎は、政治的・軍事的・経済的な基盤を確立していたと考えられます。


 まず、政治的には、飛鳥・奈良・平安時代へと、長期にわたり藤原氏一族が大和朝廷に張り巡らした盤石の支配勢力が、宮崎太郎の後ろ盾となっています。


 次に軍事的には、「宮崎党」が宮崎太郎を党領とし、配下に弟の南保次郎、宮崎(別府)三郎、長男の入善小太郎、佐味太郎がおり、総勢50人とも、250人ともいわれています。


 平時は住民とともに田畑を耕し、山で猟・川海で漁をして普通の生活をし、地域を守る護衛の役割をしていたと考えられます。


 そして経済的には、当時宮崎岬には「外泊」といわれた自然の良港があり、笹川・木流川・舟川・入川などの河口には船着場(港)があって海上交易に適していた事から、大和朝廷、藤原秀衡、そして、木曽義仲ともつながりがあったといわれる越後国柏崎の船問屋の花蔵という大船主を介して、能登・若狭・奥州地方と海上交易し、資財を蓄積したと考えられます。


 また、佐味庄・大家庄・宮崎庄・入善庄といわれた荘園を管理し、佐味太郎とともに、山林・田畑の開拓・開墾に努めて材木や穀類を生産し、信濃国・信州国とは海産物やヒスイ石・黒曜石(こくようせき)などを取引していたと考えられます。

宮崎太郎と木曽義仲

宮崎太郎と木曽義仲の最初の出会いは、木曽義仲が1181年(治承5・養和元)6月13日の千曲川横田河原での越後の平氏方城助職(すけもと)との戦いに大勝利した後に、信濃・信州・北陸道の諸武士団とともに木曽義仲軍に加わったとされています。


 そして1182年(寿永元・養和2)8月末、北陸宮が父以仁王の乳母夫讃岐前司藤原重秀に守られて、大和国から近江国・越前国へと逃れて、宮崎太郎の館に着いたことが、信濃国の豪族仁科太郎盛弘を通じて木曽義仲へ知らされました。


 その年の9月頃、木曽義仲は宮崎太郎長康の館へ来て北陸宮と初対面、以後、木曽義仲の庇護を受けることになり、その手始めとして、北陸宮の還俗(げんぞく)式と元服式を行うために、木曽義仲の守り神である信州諏訪大社下社の大祝(おおほうり)金刺盛澄に命じて分祀(ぶんし)させ、宮崎太郎に約1ヶ月で諏訪神社と神宮寺を建立させました。


 翌年1183年(寿永2)5月11日、天下の雌雄を決する砺波山倶利伽羅峠の「源平大合戦」では、「火牛の計」として知られる夜襲戦法により、義仲軍が大勝利をおさめたことは有名です。これは、宮崎太郎が「・・・矢一ツ射ズトモ、易ク討タンズルト申シケル」と戦法を進言し、義仲は「アラ面白ヤ、弓矢取リノ謀(ハカライ)ハ、カクゾトヨ、平家何万騎ノ勢アリトモ、易ク討テンズルナ」と言ったとされていることから、宮崎太郎の献策だったといわれています。


 その後の木曽義仲の戦いには、宮崎太郎が共に戦ったという記録はあまりなく、もっぱら、北陸宮の警護と、京上洛への2度の同行に随行したといわれています。


 しかし、木曽義仲は、源氏総領の源頼朝から敵視され、さらに、後白河法皇の朝廷・貴族からも背かれ、1184年(寿永3・元暦元)1月18日、勢多・宇治川の戦いで、義経・範頼の源連合軍に敗れ、1月21日、巴御前と共に僅かの兵をつれて近江国粟津へと逃れました。


 そのあと、木曽義仲は、粟津松原の深田で馬が足を取られ、そのとき、源連合軍相模三浦の石田為久に討たれて、31歳という短い激動と波乱の人生を閉じました。

 

 しかし、木曽義仲のこれまでの戦いは、貴族・公家社会から武家社会への転換の礎になったといわれており、そのことは倶利伽羅峠の源平合戦の日、小矢部市埴生八幡宮における木曽願書(きそぐわんじょ)によると、「・・・然リト云ヘドモ國ノ爲、君ノ爲ニシテコレヲ起コス。全ク身ノ爲、家ノ爲ニシテコレヲ起コサズ。・・・」とあり、それは、「・・・戦いを起こすのは、国のため天皇のために起こす。自分のため、一家のために起こすのではない。・・・」という文章からもうかがい知ることができます。

宮崎太郎と北陸宮

 北陸宮の父は、後白河法皇の第3皇子(兄が出家したため、第2子皇子ともいわれています)以仁王ですが、皇位継承権も親王宣下も受けることができなく、不運な親子でした。


 北陸宮は、幼少名は「一の宮」、「若の宮」、あるいは、「若一の宮」ともいわれていましたが、父以仁王が、平家追討の「令旨(りょうじ)」を源氏一族に発したことが漏れて平氏に討死されました。


 そのおそれが北陸宮にもおよび、出家して大和国の菩提寺常興寺にかくまわれていましたが、平氏の追っ手から逃れて、近江、越前、加賀から越中の宮崎太郎の館へ辿り着いたのは、1182年(寿永元)8月末といわれています。


 このことが、ただちに信濃国の豪族仁科太郎盛弘を通じて、木曽義仲に知らされたことについて、単なる偶然とは考え難く、用意周到に進められたものと考えられ、一説には木曽義仲の指示によるものといわれており、したがって、「木曽宮」ともいわれています。そのほか、「加賀殿」とか、晩年には「野衣(のいり)宮」とも呼ばれています。


 宮崎太郎の館で、木曽義仲と北陸宮が初対面したのは、1183年(寿永2)9月頃といわれ、このとき、木曽義仲は、北陸宮の還俗式、元服式を行うために、宮崎太郎に命じて、約1ヶ月で諏訪神社、神宮寺を建立させ、木曽義仲の守り神諏訪大社下社の大祝金刺盛澄に分祀させたといわれています。


 これによって、以後北陸宮は、木曽義仲の庇護を受けることになり、木曽義仲にしても、北陸宮を錦の御旗として、平家追討と京への進軍の大義名分となり、宮崎太郎は、北陸宮の警護と京への上洛の準備を命じられ、北陸宮2度の京上洛に随行したといわれています。

宮崎太郎のその後

 木曽義仲が近江国粟津で源連合軍に敗れて討死し、巴御前は信濃国へ逃れ、さらに北陸宮は源頼朝の命により、京嵯峨野衣に隠居になり、自分の夢をかけた木曽義仲の天下取りと、北陸宮の皇位継承という夢は完全に絶たれました。


 宮崎太郎のその後については、いろいろな説がありますが、宮崎党の一部を連れて信濃国へ行き、そこで新たに宮崎家を再興した記録が残されており、越中国に残った人達は、佐味太郎の計らいで、今の黒部市石田地区荒町へ移住して、「良田が石田になった」といわれるように、黒部川の度重なる洪水で荒れ果てた田畑を開墾開拓したと考えられ、いまでも黒部市には50軒あまりの宮崎姓の人々がおられます

巴御前のその後

木曽義仲と巴御前の像(長野県木曽郡木曽町)

 1184年(寿永3・元暦元)1月21日、近江国粟津で義仲と別れた巴御前のその後については色々な説があります。


 義仲の命により、粟津から東方信濃国木曽へ向かったとされる巴御前は、頼朝の追っ手に捕まって鎌倉へ連れられ、その後、頼朝の家臣侍所別当の和田義盛の妻となり、まれなる武将朝比奈三郎を産んだとされています。


 しかし、頼朝死後、和田義盛は鎌倉幕府の元老になりましたが、執権北条義時と対立して一族は滅ぼされ、その難を逃れた巴御前は、越中国砺波郡石黒庄の石黒光弘を頼ってきたといわれています。


 この地で出家し巴は尼となり、主の木曽義仲、親の中原兼遠、そして、息子の朝比奈三郎など、これまで関わりのあった人々の菩提を、その後の生涯弔ったとされています。そして、1247年(宝治元)10月20日、享年91才で臨終したと伝えられています。


 戦乱の世に、親・中原兼遠の恩を思い、主・木曽義仲に寄せる献身的な一途な愛を貫き、悲しい母の素顔を持ち、戦場では豪力無双の男以上の働きぶりをした反面、色白で髪長の美人であったといわれています。


 その女性像としての生き方は、現代感覚でとらえても違和感や矛盾はなく、むしろ、現代人の忘れている信念と行動を、巴御前は我々に示しており、特に男女共同参画社会へ先駆けした人物といえるのではないでしょうか。